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2012年05月19日

小倉城と私

 私の故郷中津の隣りの宇佐(唐揚げ専門店発祥の地)には
私と同姓の一族が多く存在する。
 同時に、小倉にも私と同姓のが少なからず存在する。

なぜか?

 故郷の中津城の初代城主は秀吉の配下の黒田孝高(如水)だ。
彼の息子(長政)は、関ヶ原の戦いの戦功(小早川を寝返らせた)で
後の博多に転封(栄転だな)された。

 代わりに中津にやってきたのは丹後宮津よりの細川忠興(妻が
明智光秀の娘ガラシャで有名)だった。しかし、忠興は、
翌年から小倉城を築城しており、中津には嫡男忠利を
城主として、自身は小倉に移ったのだ。

 この細川氏の小倉移転(転封)で多くの家臣団が小倉へと
移住した。その家臣団の中に私と同姓の一族がいた。

 当時、私の一族の根拠地であった宇佐は黒田氏・細川氏の
支配下にあったが、細川氏転封の際に一族の一部が家臣として
小倉へ移ったのだ。宇佐にとどまった一族は、武士身分を
捨てて農民となり、江戸時代を過ごすことになった。

 こうして私と同姓の一族は宇佐と小倉に多く
存在することになったのだ。

 中津(宇佐)にとどまるか?小倉に移るのか?一族内で論議は
どんなものだっただろうか?関ヶ原の時の真田氏のような
生死をかけた論議ではなかったが、一族の命運を決める議論で
あったことだけは想像できる。

 とにかく私の祖先は宇佐に留まり、在地の農民として生きることに
なった。そして、私の祖父も宇佐で生まれることになる。

 祖父は多くの土地を持っていたらしいが、一代で散在したと亡き父から
聞かされたことがある。

 しかし、今日の私が有るのもそのお陰である。宇佐にとどまった
祖先があればこそ、今の私があると感じさせられた小倉城訪問だった。


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Posted by 鷹ぬ鳥 at 08:12│Comments(0)私と家族
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