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2020年01月18日

それぞれの「1.17」

 1月17日の阪神淡路大震災には、地元の方々だけでなく、
どこかにそれぞれの「1.17」がある。私もだ。

 地震のあった1月17日の前日に、明石の林崎漁港に
釣りに行ってた。唯一の釣果は普段釣れることのない
アコウだった。珍しいものは釣れるものだと不思議に
思った。まさか、翌日に大地震が起きるとは!

 1.17の早朝の大地震。活断層の東端の高槻市でも
大きな被害があった。夜明けと共に大惨事と知ったので
当時小学生のこども達は学校を休ませた。私は午前中に
職場に行き、休業を確認して帰宅した。

 その頃、全国から安否を確認する電話が関西方面に多く
寄せられていた。実は、この日九州の実家の父が肺炎で
危篤になっていたのだ。母は電話連絡しようとしたが、繋がらなかった
そう。まだ、携帯電話もそれほど普及していない時代。
そんな午後2時頃に関東にすむ兄から突然の電話。
「親父が危篤だからすぐ帰れ。オレは飛行機で今から
飛ぶ」と。

 慌てた。なにせあらゆる交通機関がストップしている。唯一
伊丹空港から大分空港までの飛行機が飛んでいるとの
情報。しかし、神戸への道は大渋滞。いつもは1時間も
かからない道を車で3時間かけて、やっとついたのは千里中央だった。
 道路が全く動かない状態を目の当たりにしたのでここで、
車を乗り捨て、空港まで徒歩で向かった。1時間くらい歩いたか?
18時くらいに伊丹空港に到着することができたのだ。19時発の
ANA便にのることができた。ロビーでは西宮から命からがら
避難した女子大生が、大分の実家に帰ろうとしていた。
空港までの道中での悲惨な光景を少し話してくれた。
その目は潤み、身体は震えていた。

 それにしても、ANAもよく乗務員が手配できたものだ。例え
空港に被害がなくても、乗務員がいなければ、飛ばせない。
大分空港までの機内は数人の客しかいなかった。

 父の臨終の間際に病院にたどり着くことができたのは
奇跡的に思えた。そして、父は1月18日の午前2時頃に浄土へ
旅立った。

 毎年1月17日を迎えるとこの2日間の出来事が思い出される。

 全ての被災者に合掌!
 


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Posted by 鷹ぬ鳥 at 14:28│Comments(0)私と家族
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