2014年07月03日
黒田官兵衛と私の一族
大河ドラマで官兵衛が取り上げられている。
中津も観光客が増えているらしい。
官兵衛が秀吉により豊前の国の領主に
なったのは天正15年(1587年)。しかし、
それまでの領主権を否定された豊前の
領主たちは、それに抵抗した。
宇都宮氏を中心とした下毛郡、上毛郡、
宇佐郡の主だった土豪も抵抗した。
私の祖先は、どうしたか?
宇佐郡で小さい城を構えていたが、黒田側についたのだ。
その時の当主の名前は「平太夫鎮継」だった。
これは、中津城の公園に最近作られた
官兵衛資料館の中にある写真だが、ここに
ある一族はみな黒田に抵抗した土豪達だが、
わが一族の名前はそこにないのがわかる。
ないはずだ。黒田に加勢したのだから。
その戦功で鎮継の領地は加増された。
黒田につくか背くか?悩んだのだろうと
思う。
その選択の是非はともかく、黒田につかなければ、
私も存在していないだろうということはだけは
想像に難くない。
中津も観光客が増えているらしい。
官兵衛が秀吉により豊前の国の領主に
なったのは天正15年(1587年)。しかし、
それまでの領主権を否定された豊前の
領主たちは、それに抵抗した。
宇都宮氏を中心とした下毛郡、上毛郡、
宇佐郡の主だった土豪も抵抗した。
私の祖先は、どうしたか?
宇佐郡で小さい城を構えていたが、黒田側についたのだ。
その時の当主の名前は「平太夫鎮継」だった。
これは、中津城の公園に最近作られた
官兵衛資料館の中にある写真だが、ここに
ある一族はみな黒田に抵抗した土豪達だが、
わが一族の名前はそこにないのがわかる。
ないはずだ。黒田に加勢したのだから。
その戦功で鎮継の領地は加増された。
黒田につくか背くか?悩んだのだろうと
思う。
その選択の是非はともかく、黒田につかなければ、
私も存在していないだろうということはだけは
想像に難くない。
Posted by 鷹ぬ鳥 at 08:18│Comments(0)
│私と家族
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