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2014年08月20日

長崎被爆者の声

一般紙が詳細を記事にしなかったが、東京新聞が
しっかりと記事にしていた。長崎の被爆者の女性が
安倍首相に述べた言葉を。

 以下、引用

 長崎は九日、被爆から六十九年の原爆の日を迎え、
長崎市松山町の平和公園で市主催の原爆犠牲者慰霊
平和祈念式典が営まれた。出席した安倍晋三首相の
目の前で、被爆者代表の城台(じょうだい)美弥子さん
(75)が「憲法を踏みにじる暴挙」と集団的自衛権の
行使容認を痛烈に批判した。
 田上富久(たうえとみひさ)市長も平和宣言で「平和の
原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と
懸念が急ぐ議論の中で生まれている」と指摘。
政府の姿勢に対する被爆地の懸念があらわになった。

◆被爆者代表「平和への誓い」全文
 一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や
空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、
防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなく
なっていました。
 八月九日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが
鳴りました。
 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した
祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。
爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の
長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、
「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは
「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。



 

 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して
来たのです。
 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。
お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から
呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、
何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えて
いません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。
外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがも
していなかったのに、お母さんになってから、
突然亡くなりました。
 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえ
その時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で
多くの被爆者が命を落としていきました。
私自身には何もなかったのですが、被爆三世である
幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、
こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、
苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の
恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。
今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を
世界中から一刻も早くなくすことです。
 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。
被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、
先頭に立つ義務があります。

 しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているので
しょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、
日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できる
ようになり、武力で守ろうと言うのですか。
武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、
戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。
日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。
被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。
 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、
仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている
方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けて
おびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、
原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み
核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を
含め検討すべきです。
 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、
語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も
私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを
戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、
思いいっぱいで語っています。
 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな
行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、
被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を
求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、
力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を
皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。
 平成二十六年八月九日


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Posted by 鷹ぬ鳥 at 20:16│Comments(0)私の一言
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